[chapter7]
「遅かったじゃん。どこにいたの?」
黒髪を無造作にオールバックにした館崎挂が口を尖らせて言った。他の男子から比べると断然低い背丈と、独特の容姿、やけに色気づいた白い肌はどんな女子にも納得のいく端麗さを誇っていた。
「お前いつの間に起きてきたんだ?」
「しょうだって寝てたじゃん。」
「上で寝てた。」
鞄を机の脇にかけながら、干紗は言った。
「俺も行きたかった。」
挂が口を3の字にして言うと、正吾は呆れた顔をして言った。
「十分寝てただろう。」
「ちょっと干紗!」
突如、正吾の声が喧しい声にかき消された。正吾と挂は声の主を見た。
見なくても声の主が誰か分かったのか、干紗は声の主から顔を背けた。眉毛を寄せて目を細めたその顔からは僅かな戸惑いが感じられた。
そんな干紗にお構いもせず喚きながらこちらに近付いてくるのはまりねだった。
今朝の出来事でも問い質しに来たのだろうか。
「ちょっと、聞いてんの?あんた顔貸しなさいよ!」
正吾は片手で方耳を塞ぎ、溜め息を吐きながら、目の前で起こっている事を他人事のように眺めていた。
「まりね煩い。」
挂も眉を顰め、目を細めながら言った。
「あんた今朝目覚まし止めたでしょう?!」
「は?」
まりねの発言に、挂が思わず不抜けた声を出す。登校してから机に突っ伏したまま動かなかった挂は、朝のホームルームでのやり取りを一切聞いていなかったからだ。
「お前が起きなかったからだろう。」
「余計なお世話よ。あんたの所為であたしの大事な大事な皆勤賞が夢のまた夢だわ!可哀想なあたしは一体あと何ヶ月待てばいいのかしら。」
「30分も鳴らしておくのが悪いんじゃないのか。俺の部屋まで響いてたんだ、止めて当然だろう。」
「確かに煩い。」
「煩い。」
干紗の意見に、正吾と挂は相槌をうつように時々首を縦に振った。そんな正論を唱える干紗の意見にも、まりねは眉を顰めたまま動じない様子で喚き続けた。
「あんたのその行動で、あの規則正しい伊紗まで遅刻させたのよッ?」
そう言いながらまりねは、後方にいた伊紗を勢い良く指差した。
「え?」
突然の振りに伊紗は戸惑いを隠せず動揺した。
「あんたの犯した罪は重いの!わかったら今日のマーマレードクリームあんぱん2個よ、嫌でも連れていくんだから。」
まりねは圧倒的に不利な裁判を無理矢理有利に解決させ、購買一番人気の一日限定数量で販売しているマーマレードクリームあんぱんを干紗に強引に購入させるという荒技に出た。
干紗にとっては圧倒的に有利な裁判だったのだが、これ以上言ってもキリがない事を予測したのか、もう反論する事はなかった。逆にまりねの強引な交渉に、まるで上司に頼まれた仕事を渋々こなすように渋々と承諾した。
こういった不都合な事が、この二人の間では日々頻繁に起こっていた。
対立した時点で諦めの早い干紗は無言でまりねのわがままに付き合う。周りの友人たちも、毎日こんなで干紗の体も心も心配だ、とまりねからの一方的な裁判が起こる度に呟いている。
そしてつい今し方、当の本人まりね―と悲劇のヒーロー―干紗、同行人の伊紗は教室を出ていった。正確には、引きずられて行ったといってもいいくらいだろう。
まりねは昼のマーマレードクリームあんぱんの交渉だけでは物足りず、「思いをぶつけたら喉が渇いたわ。」といいながら机の脇にかけてあった干紗の鞄の中から干紗の財布だけを抜き取り、干紗の首根っこを引っ張って行ってしまったのだ。
そんな二人を心配そうに見ながら、伊紗は後を追って行った。
三人が教室を出てからしばしの沈黙が流れ、再び教室内に賑わいが戻った頃、梨瀬が正吾と挂のもとにやってきて言った。
「伊紗、最近寝不足で悩んでたみたいよ。」
「寝不足?」
挂が目を丸くしながら梨瀬を見て言うと、梨瀬は目を輝かせて挂に抱き付いた。
挂は瞬時に顔を般若に豹変させ、右腕で梨瀬の顎目掛けてエルボーをかました。
エルボーを正面に食らった梨瀬はたじろぎつつも何とか続けた。
「何でも、まりねの寝相といびきが前よりひどくなったらしくて……昨日、やっと睡眠補助薬を買ったって言ってたわ。」
「それか…、伊紗も干紗もご苦労だな。」
正吾は苦笑いをして言った。
「…たぶん今度は効き過ぎたんだわ。だから目覚ましの音にも気付かなかったのよ。」
「報われないね。」
般若の顔から元通りになった挂が溜め息混じりに呟く。
自動販売機の前でジュースを選ぶ女子生徒二人を横目に、新堂干紗は、学校に来てから気付かれてよかった、と安堵した。
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