[chapter5]
階段をのぼっていく。相手の指差した方向へと歩みをやめずに優衣花はついていった。何歩か遅れて行く優衣花の視界に、ぺしゃんこになった上履きのかかとが見える。
「何かあったんですか?」
相手は何も言わずにただ階段をのぼっていった。僅かながらに優衣花も歩みを速めてついていく。
「急ぎの用ならここででも…」
優衣花に疲れが出てきた。男子生徒がようやく口を開く。
「ちょっと私用で。」
「“しよう”?」
“しよう”って何だろう、と優衣花は思った。わからなかったが、男子生徒についていく歩みはとめずにいた。
やっとの事で屋上に着き、男子生徒が扉をそっと開いた。男子生徒は優衣花が屋上に足を入れたのを確認すると、きちんと扉を閉めた。優衣花は半歩前に出て言った。
「何の用事ですか?」
声がしたからか男子生徒は振り返ると、優衣花の耳元まで唇を近付けて囁いた。
耳に息がかかると優衣花は身震いをした。何の冗談だろうと思いながら、苦々しく作り笑いを浮かべる。
「そんな…冗談困ります。」
「何で…?」
男子生徒は優衣花から顔を離すと、無表情のまま続けた。一歩、一歩と優衣花に近付いてくる足から距離を置こうと、優衣花は後退りをしたが距離はそれ以上開けられなかった。壁まで来てしまったのだ。
「俺の事好きなんだろ?」
優衣花が動けない事を確認した男子生徒は両手を壁に伸ばした。優衣花がその手に囲まれる。動こうにも動けないという状況での動揺と、男子生徒へ少しずつ恐怖心が芽生えてきた。
「どうして…」
途端に息があがる。
呼び出されたのは、先生からでも生徒会からの用事でもない。衝動的に連れて来られた。“しよう”とは“私用”の事だったんだ――優衣花は事の粗筋を悟った。
目の前で自己満足の欲情に負けている男がひとり、自分を見ている。
「お前がその気なら、試してやるよ。俺に相応しいかどうか…」
男子生徒は優衣花の顎を掴み、自分の唇を相手の唇へと近付けていく。
優衣花は次起ころうとしている事態がわかった。恐怖心と戦いながら必死に顔を左右にそらして抵抗を試みたが、顎を掴む力が強く、逃れられる事が出来ない。
徐々に近付いてくる唇に恐怖心が増し、自分の顎を掴んでいる相手の手首を両手で何とかして解こうとした。
「じっとしてろよ!」
男子生徒はその行為を気に食わないような眼差しで眺め、もう片方の手で絡み付いていた優衣花の手を払い落とした。払い落とす力さえも強く、優衣花の華奢な腕は壁に打ち付けられた。
優衣花は益々怖くなり、目の奥から涙が溢れてきた事に気付かなかった。無意識に溢れてくる涙を抑える術を知らなかった。恐怖心に勝てず、声すら出す事が出来ない。
男子生徒はニヤけながら、優衣花の潤む瞳と震える唇を交互に見た。その唇までの距離はあと僅かだった。
すると男子生徒は空いている片方の手を優衣花の肩に置いた。触れるとわかる肩は、小刻みに震えていた。まるで小動物が怯えているように。
肩に置かれた男子生徒の手がゆっくりと滑る。曲線を描くように、二の腕、背中、腰…最後に尻まで滑ると手を留めた。
恐怖心を振り切り、せめてもの最後の抵抗にと優衣花は、両手で尻に置かれた相手の厚い手を退かした。
もう何も抵抗しないと思っていたのか、手は意外とすぐに外れた。
男子生徒は最後の優衣花の抵抗に苛立ちを隠せぬ様子で、振り払われた手の平を壁に力強く押しつけた。その瞬間、優衣花の身体がビクンと強く震えた。
力で勝てない事をわからせたと感じたのかイヤらしく微笑をした。
優衣花の涙は今にも流れそうなくらいに溢れていた。それでも優衣花は、涙を流す事を堪えていた。寒くもないのに震えは未だにやまない。
「俺の女になれば、今はこれ以上…ッ」
男子生徒の言葉が途切れる。男子生徒は片目を瞑り、上方を見ている。
梯子をのぼったところの、アンテナのある屋上の更に屋上に何かあったのだろうか。優衣花は咄嗟の冷静にもそんな事を思いながら、ふと足下を見た。
優衣花の足下に黒のインクペンが落ちていた。元々落ちていたものかはわからなかった。
「んだよッ…」
舌打ちをし、男子生徒は足下に転がるペンを踏みつけ蹴り飛ばした。キャップがひび割れる音が聞こえた。
優衣花は男子生徒の手が顎と壁から離れているのに気付いた。男子生徒の気が他のものに引かれている隙に、と優衣花は走り出した。
――が、男子生徒は機敏に手を伸ばし、優衣花の腕を引いた。
「逃げんなよ。」
男子生徒が優衣花を睨む。助けて、と必死に叫んでも声は出なかった。
すると突然、男子生徒の顔だった視界が黒に染まった。
優衣花には何が起きたのか分からず、目を丸くするしかなかった。
その時視界に現れたのは、見覚えのある男子生徒だった。
「ッ!し…」
優衣花がその名前を呼ぶ前に、倒れていた男子生徒が起き上がって殴りかかった。
「糞餓鬼が…何しやがんだ!」
優衣花は咄嗟に身を屈めた。
男子生徒は飛んできた拳を軽快に躱し、左手で相手のみぞおちに一発入れ、回し蹴りをした。
殴りかかった方の男子生徒はみぞおちに一発入れられたところで白目を剥いて人形のようになった。
ぐったりした男子生徒をじっと見て、見覚えのある男子生徒は優衣花を見た。
「あ…ありがとう、新堂君。」
優衣花は名前を口にした。堪えていた涙が安堵と共に流れ出る。子どものような顔で男子生徒のそばに駆け寄り、両手を握った。
「ごめんね…っ、ごめんなさい…!」
泣きじゃくる優衣花から発せられる言葉はひとつだった。
「いや…」
男子生徒は困惑の表情で、泣きじゃくる優衣花を見た。優衣花が泣きやむのを待ってから男子生徒は黒の学生鞄を持って、優衣花を先頭に屋上を後にした。
屋上では、しばしうなだれて動かない茶髪の男子生徒と、キャップのひび割れた黒のインクペンだけが転がっている。
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