[chapter11]

十数分前――。

「今さっき、長谷川が『新堂はいないか?』って聞いてきたんだけど、もしかしたら伊紗の事かもよ。でも、なんかちょっと妙な空気が漂ってた。」

クラスメートの女子が、伊紗を見つけるや否や駆け寄ってきて言った。
彼女の困った顔を見て、何か急用の可能性が高い気がした。
伊紗は女子に礼を告げ、長谷川を探しに歩いた。
いつも新聞と睨み合いをしながら昆布茶を啜っている職員室にも、
窓を開けてタバコを吸っているのをよく他の教員に叱られる渡り廊下にも、
渡り廊下で叱られた後に行き着く正面玄関にも、授業予定のない時間に仮眠をとっている事務室にもいない。
伊紗は大人と話す事が好きだった。
長谷川は担任という事もあり、休み時間やサボった時など、よく二人で世間話をしていた。それ故に長谷川の行動パターンは大体記憶していた。
どこをあたっても見えない長谷川の姿に多少の不安を抱えながら、最後に彼の担任としての場所に行くことにした。そこにもいなかったら、諦めてまりねとでも話をしよう。と伊紗は決めていた。
が、長谷川はその教室の廊下に立っていた。
先程クラスメートの女子が言っていたように、その表情は真剣だった。とてもじゃないが、冗談を言いながら笑い合える空気ではなさそうだ。長谷川はまだこちらには気付いていないように見える。
用事があった事を思い出し、それ以上近付く事なく、一定の距離をあけたまま伊紗は口を開く。

「私ですか?」

その言葉に、長谷川はこちらを見た。たった今伊紗に気付いた様子だった。

「いや…」

長谷川は速度の遅い瞬きをして言うと、気まずそうな顔をした。伊紗はそんな顔の長谷川を初めて見た。
瞼を一度閉じ、伊紗は踵を返す。同じ足跡を追うように、来た道を戻っていく。
長谷川にはそれ以上何も言わなかったし、何も言われなかった。
彼に何があって、彼が何を考えているのかすらわからない。わからないけれど、何か事情があるはずだ。出来る限りなら、私も協力したい。
私に今出来る事……。
歩みを速めていく。階段を降り、伊紗は自分の場所ではない下駄箱を見た。その中には上履きだけが置かれていた。
伊紗は上段にある自分の下駄箱から靴を取り出し、履いていた上履きと履き替えた。
ガラスの扉を開けると、突発的に風が吹いてきた。捲れ上がりそうになったチェック柄のスカートを片手で押さえ、もう一方の手で扉を閉める。
辺りを見回すと、左手にはプール、前方には林間、右手にはグラウンドが見えた。グラウンドからは誰かの声が聞こえる。体育か何かの授業中だろう。
伊紗は必然的に左を向いた。林間には何となく行く気にならなかった。
プールは校舎の裏にあった。その校舎の壁面に窓がひとつもないところを見ると、恐らくは覗き防止対策だと思われる。
そんなに覗きが多いのだろうか、と伊紗はふと思ってしまった。
そのプールサイドに人影を発見し、伊紗が物陰から様子を窺うと、それは男子生徒で、伊紗の双子の兄――干紗だとわかった。
干紗は制服のズボンを膝まで捲り、足をプールに浸して両手を後ろについた状態で空を眺めていた。
伊紗がプールサイドにあがると、干紗もこちらに気付いて言った。

「サボリか?」

「干紗って覗き魔?」

「…何の用だ。」

干紗は溜め息と一緒に吐く。
伊紗は一瞬キョトンとした顔を見せたが、思い出したように言った。

「あ、先生が呼んでたんだ。『新堂はいねが―』ってナマハゲみたいに。」

干紗は表情を変えずに聞いている。

「私が行ったら、違うって言われたのね。だから干紗かなーって。干紗悪い子だからナマハゲに誘われてもしょうがないねっ。」

身内が呼び出しを食らっているというのに何故か嬉しそうに笑う伊紗を横目に、干紗は足を水から離し、そのまま靴を履こうとした。

「タオルあるよ。」

伊紗は鞄からハンドタオルを取り出し、干紗に渡す。
干紗は「ああ。」と言うと、ハンドタオルを受け取って足についた水を軽く拭いた。礼を求めず、言わなくても、互いに気にしていない様子だった。

「トイレ行った時手拭いちゃったけど大丈夫だった?」

にこやかに伊紗が言う。

「…ああ。」

そういう事はわざわざ言わなくてもいいだろう、と干紗は思いながら適当に答えた。
ハンドタオルを伊紗に返し、干紗は鞄を掴んで歩き出した。伊紗もその後を追った。

「場所は…たぶんいつものところじゃないかなぁ?」

干紗は幾度か呼び出しを食らっては教員とマンツーマンで対話をしていた。
その時に使っていたのがちょうど、この部屋だった。



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